今から21年前に那覇地方法務局は「人事院総裁賞」職域グループ部門受賞者を受賞していたんですね!なんかうれしいぞ!
沖縄では、第二次世界大戦の戦禍により、全島が焦土と化し、地形の著しい変 容、土地境界標識の破壊に加え、不動産の権利関係を公示した公簿類の一切が焼失。さらには、戦後における基地問題等が相俟って、登記行政上極めて困難な問 題を抱えていた。このような状況下、同部門は、本土復帰前における琉球政府時代をも含め、登記行政に携わってきた数多くの職員の熱意と地道な努力により登 記簿等の整備に努め、国民の登記制度に対する信頼の確保に貢献してきたことが認められた。
戦禍により焼失した登記簿及び公図の数は、沖縄本島内の登記所11カ所で150万筆個に及ぶ。
米軍は、占領政策を遂行する上で早急に土地の所有権を確定する必要に迫られ、昭和21年、軍政部指令121号を発し、土地所有権認定作業を開始。その結果 、地図及び登記簿が作成され登記所に備え付けられたが、測量技術の未熟さ・器材の不足等から極めて不正確なものであった。
このため、地図と実際地が著しく相違していたり、位置境界不明の土地が存在し、複雑困難な地図訂正や地積更正の登記事件あるいは境界の不明確等に起因する訴訟事件が続出するなど種々の問題が生じている。
また、同県はその面積の11%を占める軍用地を抱えているため、土地関係法令も複雑で、基地内の実地調査に様々な制約を受けるなど、沖縄における登記事務処理上の特殊事情を形成している。
亜熱帯地域にある沖縄県においては、「夏季の炎天下では40度以上にも達します。湿度も高く、実地調査の際の体力の消耗には激しいものがあります」。さ らに、「至るところに猛毒をもつハブが生息しており、実地調査には危険が伴う」とも。
戦後における登記事務の再開は昭和26年7月。登記所再開に当たっては、「入手困難な登記簿用紙を、貿易会社などを通 じて確保」し、「六法全書等関係図書が全くないため、記憶を頼りに登記記載例や申請書の様式を作成しました」。
また、「測量器材が皆無であったため、家の雨戸の幅が三尺であることに着目し、それを基にして電線に目盛りをつけ、巻尺とする一方、物干し竿をポールの代用とするなど様々な工夫を凝らし測量 を実施」したという。久米島においては「庁舎がないために、所長の自宅で登記事務を行う」など、当時の職員の苦労話は尽きない。
復帰時には琉球政府から4,320件という大量の未済事件を引き継いだが、職員のうち約4割は、刑務所や少年院等の各機関から移籍した、登記事務につい ては全くの未経験者。事務処理が進まず、「休日返上、連日の超過勤務等で処理に当たり、事務を平常に戻しました」。
戦災により地図、登記簿等がすべて灰じんに帰した沖縄における登記行政を、今日の状態にまで育て上げてきた裏には、現在の登記部門のみならず、こうした琉球政府時代をも含めた多くの職員の努力の積み重ねがある。
近年は、一般国民の権利意識の高揚もあり、登記所を訪れる人の数は増加の傾向にある。「この10年をみても、登記事件は1.5倍に増加しています」。し かし、「各登記所では、事務処理の迅速化に努める一方、応対に当たっては、平易な言葉使いに留意し、さわやかな窓口サービスに努めています」。
法務省では21世紀を展望した登記制度を確立するため、現在、登記事務のコンピュータ化を推進している。戦後45年を経過した現在においても、沖縄にお ける登記行政は多くの課題を抱えている。が、「登記事務のコンピュータ化の推進等、登記制度の更なる充実発展と行政サービスの向上のため、一層努力を傾注 し、国民の信頼に応えていきたい」と総裁賞受賞を機に、職員一同、決意を新たにする。