私は那覇研究家でも外字研究家でもありませんけど、琉球史研究家の上里隆史さんがとても興味深いツイートをしていたので紹介されてもらいます。
「なは(ナーファ)」の地名に「那覇」の漢字が当てられた初見は、1521年(正徳16)の三司官から種子島時堯へ宛てた書状(「旧記雑録」)。なお1542年(天文11)の大内氏奉行人・相良武任の書状には「奈波」とあり(「中川家文書」)、表記は定まっていなかったらしい。
— 上里隆史さん (@seonglei) 11月 24, 2012
正徳16は永正18のミスかなーと思ったのですが、種子島時尭は1528年生まれらしいので、別の年号との勘違いだと思います。はい。まあ、細かいことは置いといて。
時は安土桃山時代。沖縄が琉球と呼ばれていた時代。尚清王か尚元王あたり。その頃から「那覇」という表記が使われていたなんて驚愕ですね。その書状には新字体と外字のどちらが使われていたのかな?
登記簿に外字の「那覇」が使用されるようになった経緯には原因があると思うのですが、私には皆目検討がつきません。手書き文字だから読み違いとかもあったんじゃないかな?と妄想してみたり。戸籍も達筆すぎて読み解くのに苦労することがありますしね(笑)
ウチナーグチだとナーファ(nafa)と呼びますが、放送用語委員会の前身、放送用語並発音改善委員会でナハ(naha)と決定されたそうな。
ウィリアム・アダムズの『琉球諸島航海日誌』(1614~15年)には那覇を「nafa」などと表記している。また日誌には琉球語のメモもあって、例えば「Yes」は「u!」、「No」は「ayabirang」とあり、島津軍侵入直後の琉球の言葉を知るうえで興味深い。
— 上里隆史さん (@seonglei) 11月 24, 2012
包摂規準という言葉もあるのか。頭の中に入れておこう。写真は沖縄県地名大辞典739項の那覇市の項目より。